2018/11/28

実のところ、一度として同じ季節は来ないのだ。四季折々の鮮やかな景観が日本にはあるよって、ごもっともな謳い文句で観光客を誘っておられるけれど、本当は四季なんてものは存在しなかったのだ!

 

いわば季節とは、秒速(かもしくはそれより早く)で移ろう原子レベルの集団だ。我々には察知のできないスピードで過ぎ去っていく過去の幻を、苦し紛れに四季だなんて呼ぶのだ。本当は四つどころではなくて、無数にあるはずなんだ。自分の生まれるよりずっと前から、数えることもままならないくらいの速さでたくさんの季節が生まれては死んでいったんだな。そのひとつひとつにドラマがあったのなら、素敵なことだと思う。

 

ならばもはや、一年だとか一ヶ月だとか、果ては一秒、刹那がどうとか、定義されたはずのものだって怪しい。僕たちはそんなものに囚われている場合なのだろうか。どう思いますか。僕にはそうは思えません。

何より大切なことは、自分にとっておもしろいなってことを全うできるかどうかだ。自分が喜ばせたい人を喜ばせることができるかどうかだ。社会のためにとか発展のためにとか、ふざけた建前で支配を強制しないでほしい。しかし、それに抗わない自分が何より惨めで憐れで滑稽だ。

 

社会的な死という言葉がある。社会なんてくそくらえだと思っているので、そこで生きていても死んでいてもどうでもいいなと思うこともある。だけど、自分にとって関わりたい人、関わりを断ちたくない人、そういう人たちからすると、社会的な生死は大切なんだろうと思う。

 

街中で衣服を引き裂きながら社会への不満を叫んだりしたら、なんかパンクっぽいなって思う。別にやりたいなとは思わないけれど、まぁパンクは好きだ。例えばそういうことをしたら、社会からは白い目で見られることになるのかもしれない。そうすると、社会的にちょっと死んじゃうんだろうな。

社会的な死者は社会の外側を住処とすべきなんだろうと思う。少なくとも社会の内側にいる人たちはそうしてほしいだろう。だとすると、社会的な死者と関わろうとすると、せめて社会の縁くらいまで行かないといけない。そしたら、死者と関わる人まで死に近づくことになるんじゃないか。

 

そう思うと、今大切だなって思う人たちのことを思うと、自分だって社会的に生きてなきゃいけないんだなって思う。本当はくそくらえだと思っているんだけど、ちょっと無理しないとできないことなんだけど、そうしないと大切なものを失くしてしまうんだろう。大変なことだ。ちょっと無理なんだよ。

 

社会的に死ぬよりも、実際に死んじゃった方がまだいいのかなって思ったこともある。だけど、そんなことは比べるようなものでもないと思う。もしそんな風に頭が考え始めてしまったのなら、社会に遠慮を強いるくらいのつもりで戦った方がいいんだろう。自分は弱者で、本当に何もできないと思う。それでもいくらかは誰かに共感してもらえる感性を携えているし、思考することのできる頭だってある。人間には言葉がある。それは他人とのコミュニケーションの大部分を占めている。語弊を恐れずに言えば、社会は言葉でなりたっている。よく考えることだ。社会が言葉なのなら、言葉を学べば少しは蹂躙できるんじゃないだろうか。

 

それはある種の諦めであって、テロみたいな仰々しいものではないが、自分にとってはとても大切な激しい戦争の話だ。何があっても死ぬよりマシなんだ。例え職を失って路頭に迷うことになっても、下水を啜って生き長らえる路傍の汚人に成り果てようとも、言葉を綴ることはできる。そして、それは何より楽しいことであって、頭が動いて言葉を紡いでいられるうちは、死んでしまうのはもったいないと思う。そう、社会的に死んでしまっても、言葉さえあれば新しい社会が作れるよ。社会は言葉なんだからね。何も思い煩うことなく、自分の言葉を作るんだ。それが戦争であっても、どうか楽しんでいてほしい。