2025/3/30
何か話したいと思うけど、誰に向けて何をどんな風に話せばいいか分からない。話したいという欲求だけがあって、でもそれっていつだってそうかもと思う。話したいことを聞かれたい。話したくないことは聞かれたくない。他人任せに気持ちよくお話したいというのは、多くの人が通常持ち得る欲求だろうね。そういう意味で今とても普通だと思う。
生まれてこの方、いちにさんと数えて至るには長すぎる時間を経てきて、その一部始終を順に話すだけで残りの生涯を終えられそう。誰だってそう。口を開いて話し口調や物語のディティールに差があるとしても、誰もがそういう日々を積み重ねて今ここに至っている。とてもじゃないけど分かってあげられない。分かってあげたいと思えるくらいには傲慢な気持ちがある。し、分かって欲しいと思えるくらいの自分勝手さがある。なるべく押し付けたりはしたくないけど。
本編の前に説明をするとして、上のような注意書きや所感が延々続くとして、みなさんから欠伸の応酬が押し寄せてきて、本編にたどり着くことすらできないと思う。それがまるで無駄で蛇足でしかないなら、または、そうであって欲しいと思う。
薄っぺらなフレーズで言いますけど、生きていたら色んなことがあるね。薄っぺらなことと思っていたような事柄でしっかり悲しんだり、ダサいと思っていた人生の目標が云々カンヌンで輪郭以外、または輪郭を失ったような気持ちになったり、色んなことの中には辛いことだってある。楽しいことだって、嬉しいことだってある。それだけでしかない。色んなことがあるでしかない。それなら最大限嬉しくいたいし、嬉しくいて欲しい。なのに、どうして悲しいことが起きるんだろうね。意外と誰も何も分からない。自分も他人も全員、分かる人はいないかもしれない。
ちょうど10年くらい前は言葉の使い方や組み立て方が分からなくて、話したい欲求だけが積み重なってもうどうしようもない時があった。他人にそれをどうにかしてとお願いするのは、性処理を懇願するより恥ずかしい醜態だと思う。だから、もう自分と自分でお話するしかない。壁に向かって語りかけては返事があるような気がして、永遠に続く問答のような時間を過ごすと、それはそれでスッキリした気分になる。今思うとそういう時間だって必要だと思う。ずっと自分だけと話していると視野は狭窄化し、話の通じない哀れな化物になりかねないが、果たして他人と話し続けることもどうにかなっちゃうのかもしれない。せめて自分で自分のことくらいはなるべく分かった風でいたい。今はそれすら自信がない。
本当はそんな自信は必要がないかもしれない。でももうずっとそれがあると思ってきたから、ないと不安で落ち着かない。取り戻すための時間の先に、また楽しく過ごせるならその方がいいと思う。楽しさの形が思った通りじゃないとしても。みんなで楽しく過ごそう、それはきっと許したり受け入れるということだと思う。