2019/10/13

日曜日になると毎週のように、自分はどんな人間だったっけ?って思う。確認しないと自分を思い出せないし、その時点でもうキャラクターを演じてるようなものだろうね。それは自分を否定されたとしても、演じてるだけだからねって、思い込めるように自己防衛の手段としてやっているのかも。うん、そんな気がするね。中学生くらいのときに始めて、今までずっと続けてしまっていることだと思う。
どうして断言するのでなく「思う」なのかというと、もはや自分でも分からないからだ。果たして自分という人間を理解している人などいるのだろうか。

 

一昔前はある程度何かを成し遂げた・覚悟を持った人間でないと大衆へ何かを発信することはできなかったけれど、よくも悪くも今はそういう時代じゃない。検索してヒットする情報の半数以上が、何の権威も持たない普通の人が勝手な意見をつらつらと並べているものだ。
考えるということはとても大切だ。だけど今は、なにも考えてなくたって誰かが勝手な意見を述べてくれてるから、それを鵜呑みにして自分の考えですよって顔をできてしまう。まるで自分の経験ですよ、考えた結果ですよって顔で、人に意見を発せてしまう。でもさ、考えてみてほしい。生きた年数も性別も境遇も違うのに、他人の意見をまんま呑み込んじゃうのって絶対おかしいと思わない?

 

例として、本来であれば映画のレビューなんて何の役にも立たないもののはずだ。だってレビュアーと自分は違う人間なんだから。俺は冷たい熱帯魚という映画がとても好きだけれど、好きだっていうとそれだけでサイコパスなの?と聞いてくる人だっている。こっちからするとお前の方がよっぽどサイコパスやぞって、思う。
それくらい、自分の意見って人とは違う。目に映る人のほとんどがいいって言っても悪いって言っても、自分にとってどうかは、自分で感じてみないと分からない。なのに、今はみんながいいと言っているから、悪いと言っているから、とかそんなことを言っちゃう人がたくさんいる。

 

それは考えることをちょっと放棄しているんだよ。興味のあるものを調べて、こういうものだって結論つけて判断するのは素晴らしいことだと思う。だけど、芸術って人の話だけでは分からないし、分かるべきじゃないと思う。
もしそれで分かっちゃうよっていうのなら、全部言葉で説明しちゃえばいい。わざわざ音楽が音楽であったり、映画が映画であったりする必要はない。音楽は音楽でしか説明できないから音楽だし、他のものもそう。というか、そうあってほしい。

 

だから、自分で音楽を聴いて、映画を観て、自分の感想を話してほしい。誰かがこう言っていたけど、自分はこう思ったよ、ですら俺はちょっとどうかなって思うときもある。なんかそれってフィルターかかってるよねちょっと。でも避けきれないんだろうな、そういう時代だから。面倒なことだよ。

 

毎週のように自分を思い出すとき、映画のことを思う。ああ、あのシーンでこう思ったな、なんだか涙が出ちゃったな、そういう人間だったなって、思う。
そういう再確認のおかげで、自分の選択は自分らしいなってずっと思い込んでる。何かを間違ってもちゃんと自分らしければ、俺は全然いいよ。たとえ演じてるのだとしてもね、自分を見失うことが一番怖い。周りはもう随分と現代的で、システマチックになってきている。それってどんどん削ぎ落とされていて、失くなるものにノスタルジー感じたりするよ。
人の話に耳を傾けることは素晴らしいことだと思うけど、それは別として、自分でちゃんと考えなきゃね。でないと、少なくとも俺は、自分を見失って、もうどうしようもなくなっちゃうだろう。考えてないと恐ろしいことだ。

 

もしかしたら演じてるんじゃなくて、本当に忘れっぽいだけなのかもしれないね。だとしたら、それすら忘れてしまうんだろうけどね。