2018/01/13

毎日について書けば、意外と楽しそうで充実しているように思う。曲がりなりにも国立の大学院を間もなく卒業し、それなりの企業へ入社することも決まっている。過去にも未来にも希望があるように思う。
それでも毎日の渦中にいる本人に希望があるかは、その話とは関わりがない。そして、希望が無い事がよいか悪いかすらも、他人には決める権利すらない。全てについて、本人にとってどうであるかしかない。

毎日に悲しさを感じるようになったのは最近のことのように思う。悲しさなんて曖昧なものを感じている、と、きっちり言い切る事ができるのはおもしろいと思う。自分を自分ではない自分として捉え始めたのはもうかれこれ10年ほども前の事だ。周囲の誰もが他人に見えて、果てには自分すらも他人だと感じる。自分の感覚を他人の感覚のように思う。それは別に悪い事だとは思わない。俯瞰的に見て、操作できる他人の人生は、思うより悪くない。
だけど、その中で思うように行かない事もある。人に向けた何かを決める時、思ったとおりにはできない。できることなら関わる誰もに笑っていて欲しいし、願う事は叶える手助けをしたい。それはほとんどがうまくいかない。他人は自分ではないため、回答を出すのが難しい。そして、僕のことを他人ではないと思ってくれる人たちこそ、困ってしまう。自分自身のことすら他人ではないかとしている自分に、自分以上の扱いをもたらしてくれることが、あっていいものだろうか。それに疑問を持つ時点で、今の自分を維持することができなくなっているのかもしれない。そして、結局、回答できないまま時間は過ぎて、不義理な人間として過ごす事になる。居心地が悪い。

だから、本当はすべての関わりをもう断ちたい。少しでも他人でない人物として認めてくれている人たちと関わりたくない。でも、そんなことができないのは分かる。自分は他人ではないからだ。本当はみんなと楽しい毎日を送りたい。それは心の底からそう思えるような毎日を。今のままでは到底無理だと思う。
それでも変わる気はない。今からでは相当遅すぎる。新しい自分を見つけて挿げ替えることが正解ではないかと思う。できるだけ正解らしい正解を自分のために探してみたい。