2017/11/04(土)

思考はいつもフラットでいたい。あらゆるものにきっちりとした価値判断を突きつけていきたい。人間らしさとして定義されるものが、情の満ち引きにより表現されることであったとしても、それに沿うためだけにわざわざ感情的にはなれない。それどころか、その時々に自らが抱く感情にすらも疑問符を浮かべて生きている。

それが嘘だというわけでもないし、そこについて他人に嘯いてるわけでもない。ただ頭の中に生まれたものをそのまま表に出すほど無防備にはいられない。それでダメなら今の全てを否定された気分になるだろうから。

いろんなことが怖くて仕方がないのだ。今この瞬間の日々のことも、昔のことも、これから先のことも、すべてに拭えない畏怖がこびりついている。死んでしまうということはとても恐ろしい。明日をまっとうに生きることの次に恐ろしい。

毎日の全てに名前をつける時、感情のままになってしまうと、その全てはもう自分の全てと何ら変わりなくなってしまうように思う。それは積み重なってアイデンティティの礎にでもなるのかもしれないけれど、微塵でも愛してしまえばもう離れられなくもなる。だから思考はフラットでいたい。

それは努力の賜物なのだ。フラットでいたいからフラットにしてる、ではなくて、フラットでいたいからフラットになるように努めている、んだな。そんな簡単なことではない。二十と余年、それだけかけて少しだけ身につけた、自分の能力。
それを否定する人がたくさんいる。何を考えてるのか分からないとよく言われる。単純に悲しい。そう言うということは、少しでも俺の頭の中について考えてくれたんでしょう。それは嬉しい。だけど、理解されないのは悲しかったな。

それでも変わることはできないと思う。そして、たまに自分の感情の先で、名前をつけてやろうかなと、思うこともある。この歳になってようやく少しだけ。それはいいことだと思うな。