2017/09/22(金)

昔はよかっただろうか。

その渦中にいた頃には微塵もそんなこと思わなかったんじゃないだろうか。今になって、あの頃はよかったって、ようやく気づいたんだ、みたいなことを言うんだろうか。

 

そんなことはない。いつでも良きも悪きもあるだろう。別にいつがいいわけじゃない。思い出せるのが極端にいいか悪いかのどちらかに偏った印象的なものなだけで、薄っすらした記憶も含めてきっちり一瞬ずつ並べてみたとすれば、今も昔も、寸分程度の違いしかない、同じ幸福の上にいるんじゃないだろうか。

 

頭ではそう思っていても、あの頃はよかったと、そう思ってしまうのは、自分の変化を受け入れつつある自分に、ある種恐怖さえ覚えるからである。変化することはとても怖い。

長らく存在しているものには、少なからず誰かしらが何かしらの評価を付加していく。それを見た上で、自分も評価を付けてみる。他人の意見は調味料みたいな感じで、ふりかかる。味がついていい。そこに迎合するも、反論するも、どちらにしても自分の考えがある感じがしていい。

 

ところが、新しく生まれたものには、誰の評価もない。自分がどう感じるのかを論じる時、指標にできるものがない。不安になる。何かひとつ浮かんでも、本当にそうなのだろうか、まるで見当違いなんじゃないだろうか。答えを出せずに目を背けてしまう。

変化するというのは、新しい存在になるということでもある。それはとても怖い。だけど、世界は変わり続けることでしょう。人間は終わり続けていくし、終わるたびに始まってしまうこともある。

自分を表現するということは、新しい何かを生み出すことでもある。新しい何かはもちろん誰の評価もなく、ただただ自分一人の感性のみを信じて作り上げることになる。とても怖い。だから、音楽でも映画でも文章でも何でも、作る人はすごい。それを誰が気にいるか気にいらないか、そのどうかはまた別にしても。

 

あの頃がよかったのは、何も認められなかったからだと、結論付けた。いくつかの解釈が浮かんでいたが、最も納得がいくのはこれになる。今でも認められることは少ないけれど、自分の不甲斐なさはきっちりと認めている。それは、大人になりつつあることになるのか。それとも、子供でも大人でもない、不甲斐ないだけの人間になるのか。分からないけれど、それは間違いなく昔とは違っていて、その変化は恐ろしく面白いことだと思う。