2017/11/04(土)

思考はいつもフラットでいたい。あらゆるものにきっちりとした価値判断を突きつけていきたい。人間らしさとして定義されるものが、情の満ち引きにより表現されることであったとしても、それに沿うためだけにわざわざ感情的にはなれない。それどころか、その時々に自らが抱く感情にすらも疑問符を浮かべて生きている。

それが嘘だというわけでもないし、そこについて他人に嘯いてるわけでもない。ただ頭の中に生まれたものをそのまま表に出すほど無防備にはいられない。それでダメなら今の全てを否定された気分になるだろうから。

いろんなことが怖くて仕方がないのだ。今この瞬間の日々のことも、昔のことも、これから先のことも、すべてに拭えない畏怖がこびりついている。死んでしまうということはとても恐ろしい。明日をまっとうに生きることの次に恐ろしい。

毎日の全てに名前をつける時、感情のままになってしまうと、その全てはもう自分の全てと何ら変わりなくなってしまうように思う。それは積み重なってアイデンティティの礎にでもなるのかもしれないけれど、微塵でも愛してしまえばもう離れられなくもなる。だから思考はフラットでいたい。

それは努力の賜物なのだ。フラットでいたいからフラットにしてる、ではなくて、フラットでいたいからフラットになるように努めている、んだな。そんな簡単なことではない。二十と余年、それだけかけて少しだけ身につけた、自分の能力。
それを否定する人がたくさんいる。何を考えてるのか分からないとよく言われる。単純に悲しい。そう言うということは、少しでも俺の頭の中について考えてくれたんでしょう。それは嬉しい。だけど、理解されないのは悲しかったな。

それでも変わることはできないと思う。そして、たまに自分の感情の先で、名前をつけてやろうかなと、思うこともある。この歳になってようやく少しだけ。それはいいことだと思うな。

2017/10/17(火)

気温が下がって、変わることといったら、服装ですね。ついこの間までまだ夏なのかよって言いながら半袖で外に出てたのに、今日なんかはもうすっかり冬の香りがする。秋はどこに行ったんだよ。秋用の服、用意してたのにさ。急いで引っ張り出してきた厚手のパーカーは、押入れの埃っぽい臭いがして嫌だった。早く洗濯をしたい。

連日降りしきる雨のおかげで外に出るのが億劫である。そんな時に限って学校とかバイトとか、普段よりも忙しくって、挙句に僕のスニーカーは全部きっちりヒタヒタになってしまいました。これも全部雨のおかげ。覚えてやがれ。早く洗濯したいのにさ。

レコードをセットして針を落とす作業は、嫌いじゃない。指でちょちょいとやればスマートフォンからそれなりの音質で音楽が流れたりするけれど、わざわざケースから大きなレコードを出して、プレーヤーにそっと置いて、針を落とすとようやく音が流れ始めて、時折ゴソゴソとノイズを交えながらいいのか悪いのかよくわかんない音質で音楽が鳴る。そうやって手間をかけてやると、なんだか自分が動いてるおかげで他の物事が進んだって、実感を得られる。周りの出来事はなんだか自分とは関係のないことばかりのように思えて、だから時々は自分のおかげでなんかが変わってもいいと思う。

ここに自分のおかげでっていうのは言いたくないけれど、熱帯魚には随分と手をかけている。こまめに掃除をして、水温をチェックして、餌をあげて、話しかけたりもしてみる。何考えてるのかさっぱり分からないが、少しは仲良くなったんじゃないかと思っている。

関係を構築することはよい。自分で自分は見えないが、他者から自分を把握することはできる。そのためには関係が必要である。それがたとえ魚であったって、見えるものはある。
もちろん人間でもよい。むしろそれが相応しいと思う。しかし、それぞれ得手不得手があるので、そこに固執することもないとは思う。俺は人間と話すより魚や動物と話す方がいい。何言ってるかまったく分からないからね。

でもきっと、これだけ毎日雨だと、嫌だろうね。空が暗いからね。早く洗濯したいってほんと、思うよ。

2017/09/20(水)

現実には理由がなくとも結末をむかえることでも、自分なりの理屈をきっちり整えてあげないと、頭の中の物事は解決しない。
放り投げたボールは現実では地面に転がるけれど、頭の中では行方不明になる。

 

それはとても苦しい性で、それでいて与えられた権利でもある。特別驕っているつもりはないけれど、人間には思考する能力があって、複雑な物事であっても、他の動物よりは理解することができる。ともすれば、目の前の出来事について、きっちり解釈して捉えていかなければいけない。それは権利であって、ほとんど義務でもある。

にも関わらず、思考停止で視界すらも閉ざしている人が多くいる。自分だってあらゆる全てに結論を出し続けているわけではないけれど、それでも不満を述べたくなるくらいに自分以外に自分を預けている人がいる。
本当は自分もそうしたいのに。だけどそんなのはもう生きる理由を放棄するのと同じことだと思う。理由がないのに生きていくことは、ただの惰性に他ならない。自分は自分で律するべきだ。

考えることはとても苦しい。現実のほとんどは自分の手の及ばないところにあって、どんな手段を閃こうとも、即効性はなく、暖簾を殴打しているような気持ちになる。それでも考えなければいけない。生き続ける以上は、その理由を失うわけにはいかない。その苦しみに共感しないわけにはいかない。それを共感してもらわないわけにはいかない。

 

要約して、理屈をきっちり解釈して飲み込める人と結婚したいです。他人任せの人生を自分のものだと勘違いしてる人とお話しするのはもううんざりです。