2017/09/20(水)

現実には理由がなくとも結末をむかえることでも、自分なりの理屈をきっちり整えてあげないと、頭の中の物事は解決しない。
放り投げたボールは現実では地面に転がるけれど、頭の中では行方不明になる。

 

それはとても苦しい性で、それでいて与えられた権利でもある。特別驕っているつもりはないけれど、人間には思考する能力があって、複雑な物事であっても、他の動物よりは理解することができる。ともすれば、目の前の出来事について、きっちり解釈して捉えていかなければいけない。それは権利であって、ほとんど義務でもある。

にも関わらず、思考停止で視界すらも閉ざしている人が多くいる。自分だってあらゆる全てに結論を出し続けているわけではないけれど、それでも不満を述べたくなるくらいに自分以外に自分を預けている人がいる。
本当は自分もそうしたいのに。だけどそんなのはもう生きる理由を放棄するのと同じことだと思う。理由がないのに生きていくことは、ただの惰性に他ならない。自分は自分で律するべきだ。

考えることはとても苦しい。現実のほとんどは自分の手の及ばないところにあって、どんな手段を閃こうとも、即効性はなく、暖簾を殴打しているような気持ちになる。それでも考えなければいけない。生き続ける以上は、その理由を失うわけにはいかない。その苦しみに共感しないわけにはいかない。それを共感してもらわないわけにはいかない。

 

要約して、理屈をきっちり解釈して飲み込める人と結婚したいです。他人任せの人生を自分のものだと勘違いしてる人とお話しするのはもううんざりです。