2018/09/21

最近はどうですか。
楽しいですか、そうならいいなと思います。
生きていると悲しいときがあります。
本当は悲しいと思いたくないです。
僕は、そう思います。

 

自分の気持ちは分かるよと言えますか。
僕には言えません。
本当は悲しいと思いたいのかもしれません。
でないと、おかしいんです。
自分の気持ちも分かりません。

 

この間はステージに立ちました。
実に9ヶ月ぶりのステージでしたが、僕たちは別に一週間ぶりくらいの感じです。
きっとみんな楽しくなってくれたと思います。そう思いたいです。
僕はステージに立って楽曲を聴いてもらうことを、本当はどうでもいいと考えています。
ステージの上でやるのは、人間が何らかの方向について限界を迎える姿です。
僕はステージの上で人間をやめてみたいんです。
しかし、まだなんともならないと、分かります。
自分の気持ちが分かります。

 

悲しいことはいくらでもありますか。
楽しいことはどれだけですか。
正解が見つからないですか。
どうでもいいですか。
毎日悲しくて仕方がないかもしれないけれど、その悲しみは感じている人だけのものです。
どうか誰かに分かってもらわないでください。

 

楽しくなってくれたら、その楽しみはあなただけのものです。
僕は唯一のものをみんなに感じてもらって、それを僕の唯一にしたいです。
何も伝えたいものはありません。
どうか誰かと同じになりませんようにと思います。

 

またライブ誘ってもらえるといいなと思います。
よかったら、お願いします。

 

2018/01/13

毎日について書けば、意外と楽しそうで充実しているように思う。曲がりなりにも国立の大学院を間もなく卒業し、それなりの企業へ入社することも決まっている。過去にも未来にも希望があるように思う。
それでも毎日の渦中にいる本人に希望があるかは、その話とは関わりがない。そして、希望が無い事がよいか悪いかすらも、他人には決める権利すらない。全てについて、本人にとってどうであるかしかない。

毎日に悲しさを感じるようになったのは最近のことのように思う。悲しさなんて曖昧なものを感じている、と、きっちり言い切る事ができるのはおもしろいと思う。自分を自分ではない自分として捉え始めたのはもうかれこれ10年ほども前の事だ。周囲の誰もが他人に見えて、果てには自分すらも他人だと感じる。自分の感覚を他人の感覚のように思う。それは別に悪い事だとは思わない。俯瞰的に見て、操作できる他人の人生は、思うより悪くない。
だけど、その中で思うように行かない事もある。人に向けた何かを決める時、思ったとおりにはできない。できることなら関わる誰もに笑っていて欲しいし、願う事は叶える手助けをしたい。それはほとんどがうまくいかない。他人は自分ではないため、回答を出すのが難しい。そして、僕のことを他人ではないと思ってくれる人たちこそ、困ってしまう。自分自身のことすら他人ではないかとしている自分に、自分以上の扱いをもたらしてくれることが、あっていいものだろうか。それに疑問を持つ時点で、今の自分を維持することができなくなっているのかもしれない。そして、結局、回答できないまま時間は過ぎて、不義理な人間として過ごす事になる。居心地が悪い。

だから、本当はすべての関わりをもう断ちたい。少しでも他人でない人物として認めてくれている人たちと関わりたくない。でも、そんなことができないのは分かる。自分は他人ではないからだ。本当はみんなと楽しい毎日を送りたい。それは心の底からそう思えるような毎日を。今のままでは到底無理だと思う。
それでも変わる気はない。今からでは相当遅すぎる。新しい自分を見つけて挿げ替えることが正解ではないかと思う。できるだけ正解らしい正解を自分のために探してみたい。

2017/12/19(火)

正直な話、毎日もうダメだと思っている。預金残高が底を尽き、毎日の食事もままならないことも、日々のタスクが自分の容量をオーバーして、何をするにも目の回る思いをしていることも、バイト先が来月には潰れることも、その全てに関わりなく、もうダメになると思っている。
今日もダメだし、明日もダメ。昨日もダメだったし、その前もダメ。ダメじゃなくなる目処もダメ。ダメな自分に開き直れるほどのダメさはまだ持っていない。

明日になったら何かが変わるか?そんなことはない。毎日同じ。生きていて、お腹が空いて、嫌々働いたりもして、綺麗な人に目を奪われたり、自分の醜さに落ち込んだりする。変哲なんてどこにもない。私たちはここから進むことができない。世界を変えるなんてそんな大それたことはできない。
気が違うほどに自分は自分と2人きりで、本人ではないからこその呆れと、本人だからこその落胆がある。もう1人自分を見つけて、そしたらどう思えるのかな。
こんなにも鬱々とした気持ちを、誰にも明かすことなく(今書いているけれど)、平等な時間は容赦なく刻まれる。誰もが成し遂げる偉業に、自分だけが飼育する化け物が、噛みついて恥に変わる。
誰かに何かを表明することは恐ろしい。悍ましい。苦しいし、辛い。だけど、アイデンティティというのは、そこにしかない。それを求めて、それだけを手に入れるために、今までがあった。

これからはどうするのだろうか。皆目見当が付かない。とにかく悲しい。だけど、この悲しみは自分だけのものだと、その唯一性に価値を見出したりする。そのくらいアイデンティティ固執する。それは、誰もが同じに見える悲しさがあるからだ。個性なんてない。我々は人間という動物で、集団を形成して生活をする。その一人一人は人間で、一人一人が生きている。個性はない。あると思うだろうか。しかし、例えばこれがイワシならどうだろう。イワシは群れを形成して生活をする。その中で、大きさの大小はあれど、個体それぞれに特徴を見出すだろうか。僕たちはそんなものに目を向けない。いや、ほとんどは向けないだろうな。なのに、どうしてほとんどは、人間には個性があるなんて言うのだろう。不思議に思う。
だけど、僕たちは個性なんてない集団の中のたった1人だけれど、たしかに自我を持って生きさせられている。自分自身を抱えて生きている。なんて悲しいことだろうか。何も思うことがなければ、生存本能と、プログラムされた人間としての振る舞いだけを持っていれば、思考なんてなければ、どれだけ楽に生きられただろう。そして、そう思うと、イワシのそれぞれにも思考はあったのかもしれないように思う。でも、あまりにも弱者で、外的な要因により死に至らしめられることが多すぎて、思考を捨てたのかもしれない。苦しまないように。もちろん、今だって思考があるのかもしれない。僕たち人間がまるで無視するその個体たちに。それぞれの性格が、人間が個性と呼ぶ個体差が、悲しみや嬉しさを感じる心が、あるのかもしれない。とても悲しいことだと思う。

まぁ、そんなことはいいのだ。自分のことは自分にしかできない。自分の中にあるものは自分にしか掴むことができない。分からないことなんてたくさんあるけれど、少しは分かったりもする。他人に理解されたいことなんてない、いや、理解なんてできないだろうし、それを説明することは至極難しい。自分が理解することは、自分の中にしかない。
本当は、何も思い煩わない。患うのは思考だと思う。人間はなまじ思考能力に長けているが故に、それをフルに活用してしまう。していない人もいるけどさ。考えるからダメなんだと思う。

でも、悲しみは僕だけのものだと思うと、思考を止めて、沼に沈んでもいいんじゃないかと思う。ダメになってしまうなら、それでいいじゃないかって、今は本当に心の底から思う。今、どこにいてどこに向かうべきかなんて、誰にも分からないはずなのに、それが見つからなくて、必死になる。それでようやく人間として生きる資格があるのかもしれない。
それでもまだダメな自分を受け入れられないのは、理想があって、手が届く気がするのに、届かないからか。でも、こんなことも他人に言っても伝わらない。自分でなんとかしないといけない。なんとかできる限りはなんとかしたいと思う。

この間、ザゼンボーイズのライブを見た。凄まじかった。生きていてよかったと思った。こんなにも生命力にあふれた、歴史や外聞を纏いながら、それを吹き飛ばすくらい、個人がエネルギーを放出するステージは、心の一番深いところに突き刺さった。向井秀徳という人間には、間違いなく個性がある。僕は生きていて、あの日のあの時間にあの場所で、あれを見れて、本当によかった。本当によかったんだよ。思い出すたびに心臓を掴まれるような気分になる。やるしかないだろと思う。人生はやるしかない。全てを放棄したって、自分の想う自分を成し遂げるべきなのだと、今はそう思う。僕にも僅かながら歴史や外聞があって、だけどそんなものに気を取られる筋合いはない。自分には自分しかいないし、他人に見せるものは自分以外の部分なのだ。結局、生きていくだろうと思う。

それでも毎日悲しくなって、またダメにはなる。だけど、生命力に溢れたあのステージを、思い出す。悲しくても、想うことはできる。いつかまた、他の誰かが、感動を作るんだろう。感動をしたい。それが日々の望み。誰でもいいから俺を感動させてほしい。頼むよ、本当。

2017/11/04(土)

思考はいつもフラットでいたい。あらゆるものにきっちりとした価値判断を突きつけていきたい。人間らしさとして定義されるものが、情の満ち引きにより表現されることであったとしても、それに沿うためだけにわざわざ感情的にはなれない。それどころか、その時々に自らが抱く感情にすらも疑問符を浮かべて生きている。

それが嘘だというわけでもないし、そこについて他人に嘯いてるわけでもない。ただ頭の中に生まれたものをそのまま表に出すほど無防備にはいられない。それでダメなら今の全てを否定された気分になるだろうから。

いろんなことが怖くて仕方がないのだ。今この瞬間の日々のことも、昔のことも、これから先のことも、すべてに拭えない畏怖がこびりついている。死んでしまうということはとても恐ろしい。明日をまっとうに生きることの次に恐ろしい。

毎日の全てに名前をつける時、感情のままになってしまうと、その全てはもう自分の全てと何ら変わりなくなってしまうように思う。それは積み重なってアイデンティティの礎にでもなるのかもしれないけれど、微塵でも愛してしまえばもう離れられなくもなる。だから思考はフラットでいたい。

それは努力の賜物なのだ。フラットでいたいからフラットにしてる、ではなくて、フラットでいたいからフラットになるように努めている、んだな。そんな簡単なことではない。二十と余年、それだけかけて少しだけ身につけた、自分の能力。
それを否定する人がたくさんいる。何を考えてるのか分からないとよく言われる。単純に悲しい。そう言うということは、少しでも俺の頭の中について考えてくれたんでしょう。それは嬉しい。だけど、理解されないのは悲しかったな。

それでも変わることはできないと思う。そして、たまに自分の感情の先で、名前をつけてやろうかなと、思うこともある。この歳になってようやく少しだけ。それはいいことだと思うな。

2017/10/17(火)

気温が下がって、変わることといったら、服装ですね。ついこの間までまだ夏なのかよって言いながら半袖で外に出てたのに、今日なんかはもうすっかり冬の香りがする。秋はどこに行ったんだよ。秋用の服、用意してたのにさ。急いで引っ張り出してきた厚手のパーカーは、押入れの埃っぽい臭いがして嫌だった。早く洗濯をしたい。

連日降りしきる雨のおかげで外に出るのが億劫である。そんな時に限って学校とかバイトとか、普段よりも忙しくって、挙句に僕のスニーカーは全部きっちりヒタヒタになってしまいました。これも全部雨のおかげ。覚えてやがれ。早く洗濯したいのにさ。

レコードをセットして針を落とす作業は、嫌いじゃない。指でちょちょいとやればスマートフォンからそれなりの音質で音楽が流れたりするけれど、わざわざケースから大きなレコードを出して、プレーヤーにそっと置いて、針を落とすとようやく音が流れ始めて、時折ゴソゴソとノイズを交えながらいいのか悪いのかよくわかんない音質で音楽が鳴る。そうやって手間をかけてやると、なんだか自分が動いてるおかげで他の物事が進んだって、実感を得られる。周りの出来事はなんだか自分とは関係のないことばかりのように思えて、だから時々は自分のおかげでなんかが変わってもいいと思う。

ここに自分のおかげでっていうのは言いたくないけれど、熱帯魚には随分と手をかけている。こまめに掃除をして、水温をチェックして、餌をあげて、話しかけたりもしてみる。何考えてるのかさっぱり分からないが、少しは仲良くなったんじゃないかと思っている。

関係を構築することはよい。自分で自分は見えないが、他者から自分を把握することはできる。そのためには関係が必要である。それがたとえ魚であったって、見えるものはある。
もちろん人間でもよい。むしろそれが相応しいと思う。しかし、それぞれ得手不得手があるので、そこに固執することもないとは思う。俺は人間と話すより魚や動物と話す方がいい。何言ってるかまったく分からないからね。

でもきっと、これだけ毎日雨だと、嫌だろうね。空が暗いからね。早く洗濯したいってほんと、思うよ。

2017/10/14(土)

僕はとても歌が下手なのに、3人組の中で歌を歌うという役をやっています。やらされているわけでも、進んでやっているわけでもなく、ただ当たり前にやっています。歌が下手だからなかなか思うようにはいかなくて、本当に辞めてしまいたいと思うこともよくあるけれど、誰に強制されてるわけでもないし、辞めます!って言っても2人は反対することはないだろうし、なんだかそれなら辞める必要もないかなとも思います。結局は自分で選んでいるんだと思います。

最近は毎日悲しいです。理由はありません。悲しいと思い込んでいるのかもしれません。楽しいことはあります。人生は楽しいです。それでも意味もなく悲しく、部屋には蚊がいます。悲しいです。蚊は悲しみです。

蚊に噛まれてかゆいんです。蚊に噛まれると表現するのは関西人だけでしょうか。刺されるんですか。まぁ伝わると思います。かゆいんです。

つい一週間ほど前から釣りを始めました。ビギナーズラックなのか、始めた日にはメバルが釣れました。嬉しくってがんばって捌いたりもしました。あんまりおいしくできませんでしたが。その次の日からはまったく釣れないんですが、たくさんやりたい釣りがあって、それに必要な道具ばかりが増えていきます。応じて預金残高は減っていきます。足がかゆいです。

これから一週間ほどでしょうか。雨が続くそうです。自分で書いた歌の中で一番好きな歌は、飴坊の唄という歌で、雨が上がると膝を抱えていた人も顔を上げてうんぬんかんぬんという歌です。悲しい気持ちも雨と一緒に流れるといいです。悲しい蚊はまだ部屋にいます。さっさと殲滅しないと寝れません。悲しいです。

2017/09/23(土)

明日兵庫に帰る。帰るつもりは、無かったわけではないけれど、気づいたら桁一つ少なくなってた残高のおかげで、つもりはつもりで終わりそうだった。だけど、親がわざわざ連絡してくるもので、帰っておいでと連絡してくるもので、帰ってあげることにしたものです。

 

6年くらい前になるだろうか。中学を卒業して進学してからというもの、本当に、一人も友人と呼べる人がいなくて、学校と自室の往復をしていた。中学の頃のつてからバイトをすることになって、してみた。その頃は部屋でギターを弾いたり本を読んだりする以外にやることなんてほとんどなかったものだから、気づく頃には30万円くらい貯まっていた。

それは大きな金額だった。今でも思うし、当時も思っていた。俺はお金を貯めれる性分だし、これからもこの貯めたお金は少しずつ増えていくんだなぁと思っていた。そのお金でギターを買った。セールで7万円くらいの、元は10万くらいしたものだった。それは今でもよく弾いている。愛着もある。

 

5年前から今まで使ってるってことは、本当に気に入って使ってるってことだ。お金が貯まってきたのならもっと高いギターを買うことだって考えるだろうに。それでも使っている。気に入ってるんだな。

実際、気に入っている。だけど、他のギターが欲しい気持ちもある。欲しいものはたくさんある。そしたら貯金を使えばいいじゃないかと、思うだろうか。あの頃何もしなくても勝手に貯まっていった貯金は、今はもう見る跡もない。毎月、月の終わりにはほぼ0になるくらい。

どうしてかというと、いろんなところに行ったからだ。旅行だと思うだろうか。そうじゃない。旅行なんてそんな、行った覚えがない。観光なんてそんな、した覚えがない。じゃあ何かって言うと、ツイッターで知り合った人に会いに行ってみたり、好きなバンドのライブを見に行ったりしていた。書いてみて、ありがちだなと思った。

来て欲しいと言われるとどうにも断れない。会いたいと言われることなどほとんどなかったものだから、言われてしまうと、弱い。東京、徳島、仙台、名古屋、岡山、京都、新潟に行って、福岡に行こうとしてやめた。その頃にはもう貯金なんてなくて、交通費がなかったからだ。

 

その頃に知り合った人のうち、三割くらいは今でも仲がいいと、自分では思っている。友人と呼ぶのはおこがましい気がしてならないけれど、それでも昔より少しは友人が増えたんだと思う。

 

今でもお金はないけれど、おいでと言われると名前を呼ばれた犬のように行ってしまったりする。おかげさまで食費を削ったりしなきゃならないんだけど。明日は兵庫に行く。親に呼ばれたから。何をするわけでもないんだけど。数少ない兵庫の友人に連絡したら、ちょうど出張や旅行でいないんだって。本当に何もすることがない。実家で寝るだけの帰省になりそう。