2024/4/6

みなさん元気いっぱいですか?
そうですか、自分の元気の限界を把握してるのはすごくいいことだと思います。続けてくださいね、把握を…

地球規模で冬から春への移行に手間取っているこの頃は、もしかしたらなんか生まれ変わったのかもしれませんね。初の衣替えでやりすぎたりやらなすぎたりしてるんですか、地球が。今のところプレイバック季節の変わり目現象part.3くらいまで体験してますけども。ま、なんたって世界丸ごとパニクったコロナウイルスがようやく落ち着いたくらいですから、これってそういう境目だったのかもね。

時間の経過というところでは、僕の齢に久しぶりの0が現れて、や、歳を取ったなと思います。ちょうど先週部屋の片付けをしていたら古いスマホが出てきて、当時のえげつない自撮りとか見て辛かったんですけど、散々変わらないと言い張ってきたけど全然顔変わってましたね。なんか横に広がってきたと思う、太ったというよりはもう骨組みがそうなってきてるっぽい。

いわゆる典型的なおじさんのイメージってありますよね。なぜかおじさんって顔が横に広がってること多いかもなと思いました。おじさんって呼称するとチクチク言葉みたいだけど、なんというか、それをチクチクされたくないぜって気持ちをみんな持てば別にいいと思いますけども。僕はチクチクされたって痛くない人間になりたいですよ。おじさんって呼ばれたっておじさんに自信を持っておじさんとしてやっていくのか、それは。どうなんだよ、おい。

しかし、顔が横に広がることはどうやったら抑えられるんでしょうか。他のこと、例えば言い回しや話の内容がおじさんぽいということは意識すればなんとかなるでしょうけど、顔が広がっていくのは結構難しいですよね。気づく度に顔の輪郭をグイッと持ち上げてみたりはしてますけど、そんなんじゃ全然ダメなんでしょうか。令和ロマンのケムリさんみたいに髭で囲ったらいいですか、顔を。空気と自分の境目を意識することで顔の広がりを止められますか。止まるのか、それで。止められるか、俺たちを

もし止められないのなら、止められないおじさん化の中で僕は何を思えばいいんでしょうか。ニュースキャスターが嬉しそうにいませんでした、いませんでしたって言いますか。こんな夜は逢いたくて逢いたくてまた明日を待つしかありませんか。

や、別に何も言いたいことないですけど、マジで僕が聞きたかったのはみなさん元気いっぱいですかってことです。把握していますか、自分の元気の限界を。できることなら限界よりもいっぱいになっちゃってくださいね。それはユンケルスターの力添えだって辞さないわけだから。

2022/12/11

ナンバーガール無常の日を観た。2022年12月11日、ナンバーガールが解散したんです。5年前とかにそう言われたら本当に意味不明だ。クソつまらん謎のボケじゃんって思う。


今でも思い出す、2010年、夏休みに入る直前だったはずだから7月とか、当時明石高専に在学していた俺はC言語についての講義の最中、ニコニコ動画を見ていた。情報基礎演習室という、50台ほどのPCの設置された教室。

スクールガールディストーショナルアディクトを聴いて、なんかよく分からんけど音が悪いなと思っていた。だからわざわざナンバーガールのライブ動画を見たりはしなかった。

その日はベースボールベアーのPVを見ていて、関連動画に1999年RSR透明少女の動画が出てきた。なんの気無しに再生した。なんかもさついた見た目の男がよく分からんことを言って、閃光のようなギターが右耳に飛び込んできて、もうそれは、疾走、疾走するバンドミュージックが始まった。叩きつけるように歌い、歯並びが悪いんですよ、そしてとにかくドラム、ドラムがドコドコしすぎ、でもなんかすごいキラキラだった。煌びやかな疾走。今でもあの日の感じを思い出す。周りにはクラスメイトがギッチリ着席していて、いろんなノイズがあるはずなのに、ナンバーガールの音や映像しか感じない、鳥肌が立って目が離せない、なんか分からん、分からんけど、ああこれだ!これなんだ!って思う、人生で何度感じられるかわからないあの感覚、今でも思い出す。


あれから10年近く経って、ナンバーガールは再結成を発表した。向井秀徳オタクたちは向井秀徳オタクであればあるほど意味不明だったと思う。彼は一度終わらせたものをもう一度やるような男でないと思うのだ。だからこそ、再結成には大きな期待があった。ただ集まって懐かしんで演奏するだけの同窓会ちっくなものじゃない、何かとんでもないことが始まる予感がした。居ても立っても居られず、再結成が発表された日はこっそり職場を抜け出し、テレキャスターをアンプに繋いでイギーポップファンクラブを歌いながら号泣した。(終業時間には職場に戻って何食わぬ顔で退勤した。)


そしてみなさんご存知のように、ナンバーガールは何倍何十倍にもパワーアップして帰ってきた。僕にとっては、もうずっと大好きだったバンドが、もっともっと好きなバンドになった。向井秀徳がただ再結成をするわけがない、その答えは今のナンバーガールをやるということだったと思う。彼らのパワーは日を追うごとに高まり続け、本当に嬉しかった。

いまだに信じられない。私たちはナンバーガールの存在する時代に立ち会った。何より、ナンバーガールが時代を刻むその瞬間に立ち会った。何度見たか分からない「ナンバーガールの歴史を、今ここに終了する。」そして、歴史はまた始まり、間違いなく更新した。今にいる、ナンバーガールは今にいたんですよ。そう、ナンバーガールが今にいたんです。何度見たか分からないあの映像の先に、ナンバーガールがいたんです。


そうしてメキメキとありとあらゆるものを蹴散らしながら炸裂し続けてきたナンバーガールは、2022年のRSRにて解散を発表した。正直なところ、まぁそうだよなと思った。そもそもこんなに長いことやってくれると思わなかった。世の中の情勢もあって延びたのだと思うが… ただ、この3年くらいという期間は結果的に練度を高めるのに貢献したと思う。再結成して1年で解散していたら、また全然違ったと思う。

そんなナンバーガールの解散公演、無常の日を迎えた。不思議とフラットな気持ちだった。なんとなく彼らの心境は穏やかで清々しいだろうと予想していたので、そのおかげだと思う。もちろん寂しくて切ない気持ちもあったが、それよりも大好きなバンドがこんなにもハッピーな結末にたどり着いたことが本当に嬉しかった。とてつもないパワーの高まりはきっと本人たちも実感しているだろうし、ここでおしまいというのは引き際としてひとつの正解だと思う。


ここからライブの記録をします。
マーキームーンが流れて、泣いた。ナンバーガールが再結成してから5回ライブを観たけれど、毎回泣く。何回観ても信じられない。これからナンバーガールのライブが始まるんだって思うと、途端に17歳の自分を呼んできてしまう。

大当たりの季節が始まって、泣いた。スクールガールバイバイ!なんなんだよ本当に、なんでやるんだ、昔の曲を。泣いちゃうだろ。

それから透明少女が始まって、あ、これはまた後でやるなと思った。でも4回もやるとは思ってなかった。楽しかった。
オモイデインマイヘッドはもちろん泣いた。ただ向井の声が出てなくて、後半でもう一回やってほしいなって思った。最近の傾向的に後半だんだん声が出るようになってるので。でもそもそもなんで同じ曲を何回もやるのが当たり前になってるんだ。あとオモイデインマイヘッドは一回しかやらなかった。なんでだよ、もう一回やってくださいよ。

鉄風鋭くなってに入る時にボーカルのリバーブがドライな質感になってて、え!これが完璧じゃん!って思った。めちゃめちゃ嬉しかった。PAさんと解釈一致だった。

エイトビーターは再結成してから特に大好きになった。初めのドゥーンってベースの音で拳を突き上げた。ナンバーガールの良さっていろいろあるけれど、みんなで一生懸命同じリズムを鳴らす様にその良さのうちのひとつがあると思う。


ナムアミダブツは、とにかくヤバかった。イントロのひさこさんのギターがヤバすぎてドキドキした。全体通してもキワキワだった。完璧だった。これがナムアミダブツだった。

チビッコさんはちびっこサンバという名前になった。その口上で始まってナカケンがプリプリ踊りながらベースを弾くので、普通に楽しくなっちゃった。でもめちゃめちゃいい、演奏が。もうこの辺りからは全曲キレキレになっている。ナムアミダブツ以降は本当にもう完璧だった。


桜のダンスは大好きなんです。この頃にはものすごく楽しくなっていた。大好きなバンドの最高の演奏。今まで観たナンバーガール、昔の映像から再結成して今までのライブ、間違いなくそのどれよりもいい演奏だった。嬉しかった。この場にいられて本当によかったと思った。

水色革命、トランポリンガール(新)、ヤングガール〜は昔よりもキャッチーでキラキラで、本当に好きだ。昔よりも全員表現力が増してると思う、楽器も歌も表情豊かで、キャッチーな曲が本当に映える。水色革命は嬉しすぎて泣いた。夢かもねじゃないんですよ… トランポリンガールはひさこさんのギターの音がよすぎて泣いてた。


ユーレイがおれは好きだ。好きな曲多すぎなんですけども。間奏で情報過多なエンターテイメントが繰り広げられていて、気持ちがおもしろのモードになっていたけれど、死神とは手を組まないのところで泣いてしまった。ここで毎回泣いてしまう。なんか分からないけれど、ああこの人は本当にそう思っているだろう、そう思っていてくれ、って思う。

ブレークタイムは写真もだけれど、スーパーヤング流すのはずるいと思う。「炸裂するノイズの中で僕達は青春の息吹きを感じている」「いつかくる終わりの季節」「いつまでもいつまでも変わらない僕らです」ね、ずるいよね。


ブルータルナンバーガールはエイトビーターと同じくみんなで同じリズムをやる曲ですけども、このタイミングではもう仕上がりまくっているのでヤバすぎでした。この曲大好きなんだ。シンプルなリフだけど印象的で、ふとした瞬間に弾く。今日聴けると思わなかったんだ。嬉しかった。

裸足の季節はさ!ヤバかったよね。もうね、語彙が追いついてきませんけども、裸足の季節すぎた。他の曲は結構昔と変わったりしてるなと思うけれど、この曲は昔のイメージのまま、そのままパワーアップしている。一度解散したナンバーガールだけど、それでもそれぞれがそれぞれの道を歩みながら、地続きでここに来たんだよなって思って、涙が出た。あと、ナンバーガールのことを思うと、昔の自分のことも思い出してしまうんだよなって思った。おれはナンバーガールが大好きなんだ、もうずっと。


排水管さ、エグくなかったですか?この曲はナンバーガールの曲じゃないですよと向井はしきりにいうけれど、ナンバーガールの曲にしてほしいよ。レコーディングしてほしい。キラキラしたメロディ、刻むベース、随所にフィルを挟むドラム、そしてキャッチーでパンチのあるギター、どこを取ってもナンバーガールだったよ。ひさこさんのギターが本当によかった。最後のサビは変に寂しげで、終わりに向かっているんだって感じた。悲しい終わりじゃないのは重々承知しているけれど、やっぱり寂しいと思った。

タトゥーあり、ギターソロがすごすぎた。これも今までのどのテイクよりもいい、やっぱり今日が最後なんだって感じた。この時、なんとなく、本当はみんなもう少しやりたかったんじゃないかなと思った。だけど、それでも向井の判断が正しいと思ったのかなとも。みんな向井を信頼しているだろうと思う。おれだってそう。


それから、いつもの前口上の後にタッチが始まった。ああいよいよおしまいが来るのだと思った。苛立ちやもどかしさを歌うこの曲が終わらないでほしいと思った。ナンバーガールの潔さがずるいと思った。かっこよくてずるいと思った。

アイドンノウはフジロックの配信の時にも思ったが、とにかく爆発力がすごい。昔はギラついた、鬱屈とした気持ちをぶつけるような爆発があったが、今はそれぞれのエネルギーを研ぎ澄ましてぶつけ合うような印象がある。ワクワクするエネルギーのぶつけ合い。


アンコールなかったらどうしようと思ったが、案外普通にあった。客電がつくこともなく、確定演出って感じだった。

イギーポップファンクラブが始まって、いよいよおしまい感があった。メンバーの表情がすごく穏やかでにこやかで、嬉しかった。こんなに幸せな解散でよかったと思った。そして、イギーポップファンクラブで終わるかと思ったが、トランポリンガール(旧)を演奏して終わった。なんとなく向井らしいと思った。向井の茶目っ気はニヤニヤしている感じでいい。ていうか、再結成してアンコールでこの曲をやるのはずるいと思う。スクールガールバイバイなんだよ、これも。ずるいよね。


それで、メンバーがはけて、客電が点いて、でも拍手が止まなくて、4回目の透明少女が始まった。これで終わりだってみんな分かってたと思う。もはやギャグみたいな1公演4回目の同曲の演奏で、会場は完全に一体になっていた。思う存分拳を突き上げて手を叩いて、楽しかったねおもしろかったね、よかったね嬉しかったね、の気持ちでナンバーガールの解散公演は幕を閉じた。


言葉にならないと思った。こんなにいいバンドがこんなに素敵なおしまいを迎えて、何を言えばいいかわからなかった。とにかくみんな幸せでいてほしい。おれはナンバーガールが大好きだから、幸せでいてほしいよ。

でもTwitterでは結構みんないろいろ言ってて、すごいと思った。曲単位での感想なら言えるけれど、今日ナンバーガールが解散公演をやって解散したことについてはなんかもう言えないですよ。いろんな気持ちがある。そのうちまとまってくるとは思う。


ただ、解散を発表した時、向井は諸行は無常であると言ったけれど、今日を経て、それはすごく正しいと思った。一度は別れたメンバーが集まってしばらく一緒にいて、また別れて、それぞれの道へ進み、そしてまたいずれ出会うことがあるのかもしれない。それこそが諸行無常であると思った。もうずっと正しいことを言ってるのかもしれない、向井は。蘇る性的衝動の意味もいずれわかるだろうか。

これを書いていたら午前3時を過ぎた。明日はホテルで朝食を取るので7時には一回起きたい。おやすみなさい。

2022/11/13

見渡すとそれっぽいものがもう溢れまくってるじゃないですか。僕は映画が好きなので映画で言いますけど、予算がすごい莫大で有名な俳優が出てるハリウッド映画で原作も有名で、だから、おもしろくないわけない、みたいなやつ、あるじゃないですか。おもしろいっぽい要素を揃えたらおもしろい判定になるみたいなやつ。

別にね、予算とか誰が関わってるとかね、そんなのはまぁ好きにすればいいんですけど、もちろん僕だって好きな俳優や監督はいますからね、それはいいんですけどね、ただね、自分で見もしない内からおもしろいかどうかなんて本来まったく言えないわけですよ。予算や出演者だけ見てどうだなんて言えるわけないんですよ。だってあなたまだ見てないんだから。

そもそも、おもしろいって、なんだと思いますか。笑えるものですか、楽しいものですか。それって誰が決めますか。国際団体が明確な定義を決定していて誰もがそのルールに則っておもしろいか否かを判断していますか。予算が何億円以上だったらおもしろいって決まってるんですか。そんなことないですよね。そんなこと誰だってわかるはずです。なのに、どうしてか、作品自体に触れないでおもしろいかそうでないか口にしちゃう人、います。残念なことにむしろそういう人の方が多いんじゃないかとすら思います。

おもしろいってすごく不明確なものです。そしてそれはそれぞれに感じるだけのものです。それぞれにしか感じえないものです。僕たちはね、自分勝手におもしろいかおもしろくないか、ラベルやレッテルを貼りまくっちゃっていいんです。まぁ心の内に限定するならね。誰彼構わずひけらかしてたらそれはなんだか下品だなって思いますけどね。
ただ、そこにもルールがあって、自分でそれを体験してからでないといけないってことです。それはね、作り手に対する最低限のリスペクトだと思うんです。一生懸命作ったオムライス、食べる前から「不味いから要らない」だなんて言われたら、どう思います?別に見た目のこととか言われるくらいならまだいいですよ、こんな見た目のものおいしいわけない、みたいなね。ああ、見ただけで味も分かるんだこの人、何、新人類?いや、食ってから言えよって感じですよ。まぁほら、普通、味は食べないと分からないでしょう。もしかしたら人生で一番おいしいオムライスかもしれないでしょう。食べないうちから不味いって決めつけちゃうのはね、もったいないでしょうよ。というか、そもそも失礼すぎませんか、その人。なんなの、食べないで、もう。

例えばね、新しいものはね、体験したことのないものですよ。それはね、今までのルールの中で考えたらイビツに見えるかもしれない。だけど、だからってそれをルールの中にないからダメなものなんだ、おもしろくないんだ、って決めつけることはね、もったいないですよ。新しいものを受け入れられないとね、もうどこにも行けない。ここから一歩も進めないまま、置き去りになる一方です。人生一のオムライス食べられないままです。

もし望んでそうなるのならば止めるようなことではないんですが、望まずそうなっていくのだとしたらぜひ選択肢として加えてもらいたい。どんなものでもまずは自分で体験してみるのだということ。

 

でね、前置きが長い上に話も逸れてるんですけど、映画の話がしたいんじゃなくてね、最近ね、思いやりって難しいよなって思ってるんですよ。

そもそも、思いやりってなんですか。
僕が思うに、相手の気持ちや状況を慮ってよい方向へ進めるように手助けするようなことじゃないかと思います。まぁその定義が人によって多少ズレたとしてもね、たぶんほぼどのパターンでも「相手の気持ちを慮る」工程があるじゃないですか。これなんです、問題は。ねぇ、分かってくれますか。
我々はね、逆立ちしても何しても相手の気持ちなんて絶対分からないんですよ。そもそも自分の気持ちだってあんまりわかんねぇなってことがほとんどなのに、どうして相手の気持ちを分かるんですか。もし僕以外のみんなは本当に分かってやってんだとしたら、もう僕は今すぐにでも言葉の通じない国に移住しますよ。修行ですよ。言葉通じなかったらハートで行くしかないですから。

それなのにね、簡単に言うでしょう。世の道徳人っぽい人たちはね、思いやりが大切なのよ、って言うでしょう。あんたその発言こそ余程思いやりないんじゃないのって言ってやりたくすらなります。でもまぁ分からんでもないです。みんながみんな本気で思いやりを実施したらね、世の中はすごくハートフルで素敵な感じになると思います。でもめっちゃ疲れるんじゃないかな、僕だけですか?そうですか…

しかし思いやりのある人間になりたいんです。誰にだって気の遣える優しい人間になりたいですよ。だからね、相手の気持ちを一生懸命想像するわけです。この人は何を思っているんだろう、どんな場所にいるんだろう、二十何年の中で培ってきたイメージ力をフル動員してやってみるわけです。だけどそれでも答えを出せることは稀です、基本ないです。曖昧で不安いっぱいの選択肢しか思いつきませんよ。ありがた迷惑、余計なお世話、検討はずれのお節介焼き、そんな風に思われちゃいそうで、いや、本当にそうなんじゃないかって思って、変にグルグル悩みます。

そうやって僕が悩んでいる一方で、その辺の人が思いやりっぽいことを実践してくるじゃないですか。社会倫理的に、道徳的に、思いやりっぽいこと、ぽいだけのそれは案外簡単に思いついたりするわけです。落ち込んでる人にはいいことあるよと言って、仕事がうまくいかない人には頑張れよと言って、悲しいことがあった人には気持ち分かるよと言って、本当にやめてほしい。そんなの全然思いやりじゃない。ぽいこと言って気持ちよくなるだけならどこにも思いはありませんよ。あなた1秒だって相手のことを考えた上でそういうこと言ってんですかって思っちゃう時ある。悲しみはね、分かるわけないんですよ。僕の悲しみは僕だけのものなんです。一ミリたりとも誰にも渡しませんよ。ホント、まず呼吸を止めてみるとこから始めてほしい。そしたら1秒あなた真剣な目をしたから、お願いタッチタッチここにタッチです。

でも、そういう人がわりと多くて、もしかしたら僕が間違ってるのかもとも思います。本当はそんなに頑張って考えるのは求められてなくて、全然頑張れとかいいことあるよとか言われたいのかなみんな。気休め欲しすぎなんですか。おれは気休めなんて全然要らないんだけど、みんなは欲しいんですか。そうですか…

それでもやっぱり諦めたくない、優しい人になりたいからね。それはきっと、他人から優しいと思われたいというのと同時に、そうでない自分は嫌になっちゃいそうだからですね。優しくない自分が誰かに嫌な思いをさせていたら、嫌じゃないですか。嫌々期なんですよ、もう。
だから、「相手の気持ちを慮る」ことを一生懸命やってみます。本当に疲れる。相手も同じことをしてくれるかというと本当にしてくれない。僕が勝手にやってるだけなんですけど、どうしてこの人はこんなにも自分のことしか考えてないんだろう、って思っちゃうくらいしてくれない。でもそもそも僕だって口にしたり行動にしたりすることのほうが少ないんだから、全然同じなのかもですね。表面にないのなら他の誰にも見えないし、内側にそれがあるかないかは分からないから。実のところ僕は全然誰のことも思いやれてなくて、みんなはめちゃめちゃ思いやってるのかもしれない。その末にこんなこじらせ思いやりモンスターが産まれちゃったのかな…ごめんね…

 

そもそも他人にそれを求めるのは随分わがままなことだと、分かってはいます。おれのこともっと考えてよ!なんて、とんだ自己中バカやろうじゃないですか。分かってるんです。でもね、ひとりくらいはさ、考えてくれてもいいじゃないですか、ちょっとくらいさ…

そんな毎日だから、ふとした時、この人はおれのためを思って考えてくれてる、って思うと、涙が出そうなくらい嬉しくなる。欲しい言葉がなくても、望んだ行動がなくても、ただその慮る工程が自分に対してあったんだって思うだけで救われるような気分になる。
自分は自分といつも向き合っていて、時々は何もかもが間違っているような気持ちになる。もういい歳になったのに全然そんな気持ちになる。周りを見渡しても誰もいなくて、ひとりきりでとてつもなく大きな怪物と対峙しているような気持ちになる。
毎日ヒーヒー泣きたい気持ちでいるところに、大丈夫か、助けに来たぞ───って武器を持って来てくれたらもう、泣いちゃうじゃないですか。泣きたい気持ちでいるところに助けに来てくれたら泣いちゃったってなんか、本末転倒感も否めないですけど。でも本当に助かりますよ。いてくれるだけでいいです。

そういう人たちを大切にしたいです。どうしても自分のやれる範囲には限界があって、全部を大切にするなんてできないから、これからもどんどん取りこぼしながら歳をとっていくのなら、一緒にいてくれる人たちだけはきちんと抱きしめていたい。そのためにはやっぱり、相手のことを慮っていないといけないんだと思う。別に救いたいなんて烏滸がましいことを思ってはいないけど、もしも辛い時があるのならせめて自分がしてもらった分くらいは助けになりたい。それでも烏滸がましいのかもしれないけど。

だから、僕はぽいことに逃げたくないと思います。それって全然脳停止だから。やらない善よりやる偽善、みたいな言葉を振りかざして脳停止のお節介自己満オナニーしてる人たちは早々に考えをあらためてほしい。ホント、いつか道頓堀に落としますよ、僕の手で。
まぁでもわかんない。やっぱりこういうのって人それぞれだし、結局僕が言いたかったことって思いやりが大切だと思うってことじゃないですか。それって世の道徳人っぽい人たちと同じこと言ってるから、余程に思いやりがないのかもしれない。本当に難しい、思いやりというのは。これから先も分からないまま、思いやってるつもりのまま、勝手に救われたり救われなかったりしていくんだと思います。どうか見守っていてね。

2022/09/12

アタシ、何やってんだろ───
ってやつ、ありますよね。もうね、近頃はそんなん考えてばっかりなんですよ。
まぁ別に後悔とか不甲斐ないとかそんなんじゃなくて、自分は何やってるんだろうなって思うだけなんですけど。

そんなことも分かんないの?って言われるとちょっとむっとします。や、別に分かるけどね。今はマッサージチェアに座って歯磨きしてる。このあとはうがいして水飲んでベッドにゴロンだよ。

そういうことじゃなくてね、例えばすっかり二十と何歳になって、思い描いていた暗い/明るい未来なんて全然当てにならないフラットな毎日を、幼い頃からきっちり地続きでここまでやってきた自分の現在地点はどこだろね、何してんだろねってことです。

なんかね、もう随分長い時間を過ごしてきたので、分かんないんですよ。や、別に分かるけどね。
や、分かんないっていうのは、その地続き感というか、どこにいるんだろ、どうやってここにきたんだろ、これからどこに行くんだろう、という、それを、毎日整理しておかないともう訳分かんなくなっちゃうんですよ。

なんか指針を持つというのは大切だと思います。自分は何がしたいんだろうっていうのももはや分かんないじゃないですか。や、別に分かるけどね。毎日ハッピーに暮らしたいだけやからね、おれはね。ハッピーになりたいじゃん、そりゃみんなね。
でもそのハッピーに暮らすってやつをやるために明日何をするの?っていうことを、整理していかないといけない。今日何した、明日何する、その先に何を達成する、日々その積み重ねですよ。PDCA回しまくりライフですから。まぁそんなうまくいかなくて実際PPDDPPDDみたいな感じではあるし、DはDOとDREAMが織り混ざってます。夢はね、ええからね。

しかし、その、ハッピー、正体が不明ですよね。
そういう抽象的なことを目指していくことはもの凄く不毛だったりします。なんたって僕は意志薄弱を具現化したような人間ですからね、少しでも粗を見つけたらそれを理由にグウタラをやります。おかげさまでグウタラ界ではなかなか名を馳せております。

まぁそれではなかなかハッピーになれんくてですね、ムカつくじゃないですか。ムカつくんですよ。ムカつきます、ホント。
だからね、もうハッピーってこれだよって決めつけていく。もうね、やらないかんのですよ。でないとグウタラマスターまっしぐらですよ。
具体的に何だよって決まるとね、やったらいいことが分かってくるのでね、自分がどのくらいサボってるか自覚できて、後ろめたくて少しくらいはやります。

例えば僕は部屋が綺麗だったらハッピーだなって思ってですね、最近は洗濯物は畳むようにしてるし、食器洗いもこまめにやります。あと、要らないものを処分だってします。しかし、要るからって手元にあるはずなのに要らないって不思議だ。でもそうやってかないと、足の踏み場どころか呼吸のやり場だってなくなっちゃいそう。私はあらゆる物に愛着を感じるたちでしてね、ピザ屋のチラシにだって思い出がありますよ。ほら、今ここにあるのは3年前のなんでもない平日に食べたクワトロナンチャラが期間限定で販売されていた頃のチラシだよ。なんで残ってんだ。本当に要らないよ。

で、畳んでますって言いましたけどね、畳む前の洗濯物はね、そのうち溜まっていきますよ。これはねぇ、もう避けることができない。運命だから。洗濯物たちはみんな等しくそういった運命の元に生を受けてるんだわ。溜まらない洗濯物はね、生を受けてない。それはもうただの服だわ。

そういった、溜まった洗濯物を横目に暮らしながら、自分は今ハッピーから遠いところに行きつつあるな、と思うんですよ。だって部屋が綺麗だったらハッピーだから───
そう思うとね、どっかのタイミングで一生懸命片したりします。だっておれたちハッピーになりたい。なろう、みんなで。

僕はね、ハッピーの道のりをね、少しずつでも進んでいきます。全然まだまだ部屋は散らかっています。ちいかわのフィギュアがもう、多すぎる。この人たちとの共存が当面の課題。課題があるっていうのはね、いいですよ。解決すればなんだかいい方向に進む感じがしますからね。うさぎもそう思うらしい。こっち見てるね、うさぎ。

部屋が散らかってるのは今日までの僕の積み重ねですから、情けないやらなんやら思いますが、それを片付けていくのもまた積み重ねだと思うと、もうホントやりたくない。ダルすぎる。一瞬で片付いてくれ。片付けで人間的に成長できるとか微塵も思わない。全部いい感じになってくれマジ。


みなさんもね、こんな風になりたくなかったら、日々少しずつでも片付けをした方がいいです。だってそれはハッピーへの道ですからね。僕が決めただけですけど、、、みなさんもハッピーを定義したら教えてください。だってみんなでハッピーになりたいじゃん。よろしくね。なろうね、ハッピー。

2022/09/11

友達からブログたまに見てるよって言われたんだけど、数年前のブログでした。見返すと超恥ずかしかった。せっかくなので今日も書いてみます。

変わらないでほしいなって思うじゃないですか。例えば昔からの友達、数年に一度会うとかそのくらいのね、お友達が、久しぶりに会ったらなんか全然違うじゃんってなったら寂しいじゃないですか。なんだよ随分変わっちゃってさぁって思うじゃないですか。丸亀製麺でネギと天かす馬鹿みたいにかけまくってコスパよすぎって言ってた頃のお前どこ行っちゃったんだよって思うじゃないですか。

まぁ、だけどね、そもそも自分だって変わっちゃってるなとも思うんです。今から何年か前はお金なくてグラム100円以上のお肉は買わないようにしてたのに、今なんてことあるごとにちょっといいステーキ買いまくりじゃないですか。おいしいお肉が好きだよ、ホント。

もしかしたらそれは、お前ステーキなんて買うやつじゃなかったじゃん〜!って言われることかもしれないです。半額の肉をまとめて買って何日も冷蔵庫に置いて変色してから食べてたじゃん、なんだよ随分変わっちゃってさぁって思われるのかもしれない。だけどさ、仕方ないよねって思う。できれば変色してないお肉食べたいもんね、みんなね。おれだってそうだよ。

時代が刻一刻と変化するというのは、世間の基準が変化するということだと思う。それは世間の定義にもよるけれど、例えばオタクというキャラクターに対するイメージはここ十年ほどで随分変わりましたよね。そういう感じのことです。

例えば世間が0で自分が1だったら、世間から見て自分は1ですよね。そこで世間が2になったら、変わってない自分は-1になります。変わってないから変わっちゃいますよね。なんかね、最近はそんな風に思います。プラスとかマイナスとか言うと優劣あるみたいだけど、そういうのじゃなくて。

同じ場所にずっといる人は、動き回ってる人から見たら、離れたり近づいたりする。動いてる側から見るなよ、止まってる方から見るだろって気もするけどね。相対的ってことです。
久しぶりに会ったときに思ってるよりずっと遠くにいる風に感じたら、寂しく思う。たとえ昔から何ひとつ変わっていなかったとしても、自分が違う場所にいればそう思ってしまう。逆に近くにいて嬉しい時もあるんだけど。

何が言いたいかっていうと、僕の友達は時間が経っても全然友達でいてくれて、嬉しいなって思うんです。全然会わないけど、何年ぶりとかに会っても、あら昨日もお会いしました?ってくらいの気持ちで話したりする。なんだか結構助かります。

みんな同じくらい歩いたりしてきたのかしらって思うと、ちょっと感慨深いものがあったりする。全然ハッピーな話ばっかりしてても、なんとなくそうじゃないこともあったろうなとか思ったりする。そういうの言わなくてもなんとなく想像できるのもまた嬉しいと思う。だって友達だからね。

やっぱり変わらないでほしいなって思っちゃう。みんなこれからも友達でいてねって思う。自分が変わっていくのを止めることはできないと思う。みんなもそうであってほしいと思う。変わっていくことを止められないまま、これからも楽しく遊んだりしたい。それはもうずっと変わらないことであってほしい。おじいちゃんになってもおばあちゃんになっても、楽しくやろう。河原でヘビ花火延々眺めたりしようぜ。もうそれだけがこの世界を生きる唯一の希望だ。向こう数十年分のヘビ花火は手配しておくから、何も煩うことなく日々を生き抜いてくれ。頼むよ、お友達のみんな。また遊ぼう。

2019/10/13

日曜日になると毎週のように、自分はどんな人間だったっけ?って思う。確認しないと自分を思い出せないし、その時点でもうキャラクターを演じてるようなものだろうね。それは自分を否定されたとしても、演じてるだけだからねって、思い込めるように自己防衛の手段としてやっているのかも。うん、そんな気がするね。中学生くらいのときに始めて、今までずっと続けてしまっていることだと思う。
どうして断言するのでなく「思う」なのかというと、もはや自分でも分からないからだ。果たして自分という人間を理解している人などいるのだろうか。

 

一昔前はある程度何かを成し遂げた・覚悟を持った人間でないと大衆へ何かを発信することはできなかったけれど、よくも悪くも今はそういう時代じゃない。検索してヒットする情報の半数以上が、何の権威も持たない普通の人が勝手な意見をつらつらと並べているものだ。
考えるということはとても大切だ。だけど今は、なにも考えてなくたって誰かが勝手な意見を述べてくれてるから、それを鵜呑みにして自分の考えですよって顔をできてしまう。まるで自分の経験ですよ、考えた結果ですよって顔で、人に意見を発せてしまう。でもさ、考えてみてほしい。生きた年数も性別も境遇も違うのに、他人の意見をまんま呑み込んじゃうのって絶対おかしいと思わない?

 

例として、本来であれば映画のレビューなんて何の役にも立たないもののはずだ。だってレビュアーと自分は違う人間なんだから。俺は冷たい熱帯魚という映画がとても好きだけれど、好きだっていうとそれだけでサイコパスなの?と聞いてくる人だっている。こっちからするとお前の方がよっぽどサイコパスやぞって、思う。
それくらい、自分の意見って人とは違う。目に映る人のほとんどがいいって言っても悪いって言っても、自分にとってどうかは、自分で感じてみないと分からない。なのに、今はみんながいいと言っているから、悪いと言っているから、とかそんなことを言っちゃう人がたくさんいる。

 

それは考えることをちょっと放棄しているんだよ。興味のあるものを調べて、こういうものだって結論つけて判断するのは素晴らしいことだと思う。だけど、芸術って人の話だけでは分からないし、分かるべきじゃないと思う。
もしそれで分かっちゃうよっていうのなら、全部言葉で説明しちゃえばいい。わざわざ音楽が音楽であったり、映画が映画であったりする必要はない。音楽は音楽でしか説明できないから音楽だし、他のものもそう。というか、そうあってほしい。

 

だから、自分で音楽を聴いて、映画を観て、自分の感想を話してほしい。誰かがこう言っていたけど、自分はこう思ったよ、ですら俺はちょっとどうかなって思うときもある。なんかそれってフィルターかかってるよねちょっと。でも避けきれないんだろうな、そういう時代だから。面倒なことだよ。

 

毎週のように自分を思い出すとき、映画のことを思う。ああ、あのシーンでこう思ったな、なんだか涙が出ちゃったな、そういう人間だったなって、思う。
そういう再確認のおかげで、自分の選択は自分らしいなってずっと思い込んでる。何かを間違ってもちゃんと自分らしければ、俺は全然いいよ。たとえ演じてるのだとしてもね、自分を見失うことが一番怖い。周りはもう随分と現代的で、システマチックになってきている。それってどんどん削ぎ落とされていて、失くなるものにノスタルジー感じたりするよ。
人の話に耳を傾けることは素晴らしいことだと思うけど、それは別として、自分でちゃんと考えなきゃね。でないと、少なくとも俺は、自分を見失って、もうどうしようもなくなっちゃうだろう。考えてないと恐ろしいことだ。

 

もしかしたら演じてるんじゃなくて、本当に忘れっぽいだけなのかもしれないね。だとしたら、それすら忘れてしまうんだろうけどね。

2019/04/19

こんばんは。
僕は相変わらず考えなしに生きています。
ご存じの通り、世の法よりも、社会のマナーよりも、自分の信じるおもしろさだけを見据えて万象を判断しておりますので、どうにも不都合なことも多々発生します。
例えば今は神奈川まで来て、何をするでもなく引き返している最中なわけです。理由はみんな自由に考えてくれていいのよ。

さて、友人への誕生日プレゼントを購入したのはかれこれ4か月前のことで、友人の誕生日はかれこれ3か月前でした。にもかかわらず、用意したプレゼントは自室にまだあるんです。なんでだろうねぇ、本当。
取り繕うためにいくつものフレーズが浮かんでは来るけれど、その全部をひっくるめて、もっといいものにできるんじゃないか?と思うんですね。
例えば曲とかもそう。もっといいリフがあるんじゃないか、って思うと終わりなくギターとにらめっこすることになります。文を書くときだって、もっとおもしろくできるよなって、思い続けてしまうもの。
さぁ、しかし誕生日っていうのは年に一度なわけでして、とっくにすぎてしまったらそれは、誕生日ってよりはなんか突然な押しつけ気味な何かになっちゃう。でもまぁ、贈る側のエゴですよねぇ、何につけても。本当に喜んでもらえているかなんてだいたい分からないものね。

それでも僕なんかは、内容がどうというより、プレゼントを贈れる関係性に嬉しさを覚えてしまうんです。その人のために時間を割いて頭ギュンギュンに回して、あれをあげたらこれをあげたら、こんなあげかたなら、このタイミングなら、って、考えてねぇ、その時間がとても素敵ですね。
願わくばそのすべて報われるような関係性であってほしいですね。でもなんか、勘違いもしちゃいそうで、十分気をつけておかないと。

僕は存外ロマンチストですから、なんてことのない出来事から奇想天外なドラマを想像して一人身震いしたりしますし、いつしか勝手に思い込んで現実に失敗したりします。それってさぁ、俺は結構いいなって思うけどね。
現実ばっかり見てるうちは現実なんて見れませんよ。しっかり魔法の世界を覗いてください。ハリーポッターだけじゃあ、足りんよ。それは。